はんのう。いい塩梅。

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Hanno Matsuri Festival

飯能まつり

地域住民と観光客が一堂に集まり賑わうお祭り

History

飯能まつりの歴史

市街地の発展と町内会

飯能の市街地は、今の大通り(中央公民館から広小路まで)を中心に発展しました。江戸時代、大通りから北側が飯能村、南側が久下分村、広小路から北東方面が真能寺村(今の原町)で、この3村をひっくるめて飯能町(宿)と呼ばれていました。江戸初期から縄や筵を扱う「縄市」が立ち、その後絹織物なども扱われるようになり、町はどんどん繁栄します。江戸時代半ばより飯能町(宿)では市の座割の関係からか、村境をまたぐ形で西側から上宿・中宿・下宿の3町に分かれて自治活動を行っていました。明治時代になると、3町は今の自治会のもととなる三丁目・二丁目・一丁目町内会となり、同時に周辺の河原町、宮本町や真能寺村分の原町地区にも町内会ができます。

「飯能まつり」以前の祭礼

江戸時代より、飯能村には鎮守の飯能諏訪八幡神社(お諏訪さま)があり、5町内(一・二・三・河・宮)でお祭りし、真能寺村の飯能八幡神社(八幡さま)は原町がお祭りしていました。飯能市民会館の隣りにあるお諏訪さまは永正13年(1516)に勧請された古社で、祭礼時安永年間(1770年代)開始とされる3匹獅子舞が奉納されていました。獅子舞が境内だけでなく隊列を組んで氏子5ヶ町をめぐるので見物人が街中にあふれ、各商店の売り出しも盛んで近隣一番の大きな祭礼でした。

明治の半ばになると、祭礼に山車・屋台を曳いてお囃子を奉納する町内が現れます。明治15年の原町を皮切りに河原町、三丁目、一丁目、二丁目、宮本町が大正末までに、前田(八幡さま氏子)、柳原(旧加治村)が戦後すぐに、それぞれ山車・屋台を手に入れ曳き出すようになります。祭礼はその後御大典・紀元二千六百年等の大規模記念祭や戦時中断を経て戦後にいたり、昭和32年(1957)開催の市制施行・市域合併記念祭でピークを迎えます。ところが60年代以降、世の中が高度経済成長期に入ると、アナクロな神社の祭礼は顧みられなくなり、せっかく手に入れた山車・屋台もあまり曳かれなくなるのです。

「飯能まつり」新設

その後、昭和40年代に入ると明治百年記念(1968)やディスカバージャパンキャンペーンに代表される郷土日本の魅力を見直す風潮が起こり、飯能でも観光協会や商工会議所、地元商店街、地元自治会が中心となって飯能まつり協賛会が組織され、昭和46年(1971)第1回「飯能まつり」が全市をあげて開催されたのです。

市街地の山車・屋台曳行はもちろん、郊外地区囃子団体の居囃子での競演、さらに各神社に伝わる獅子舞や鳶組合による梯子乗り、民踊流しパレード、小学児童による鼓笛隊、市民主体の模擬店・催事等々盛りだくさんの内容となりました。

その後、回をかさねるごとに参加団体が増え、山車・屋台参加町内も中山、双柳、本郷が加わり、現在11町内が曳き廻しを行っています。

Feature

見どころ

個性豊かな山車

飯能まつりに参加する山車は11台ありますが、大別すると川越祭りに代表される人形を乗せた「江戸型山車」、 唐破風屋根や彫刻が特徴の「屋台型山車」の2つ形式に分類されます。

各町内の山車

双柳

平成3年に造られた山車。白木造りの屋台型で富山県井波で制作された。当祭の山車では唯一車輪隠しの腰幕がなく、腰板を見せている。また、後部両側に双柳の地名由来の彫り物がほどこされている。

一丁目

大正9年、高麗村(現日高市)の岡野桂之助作の屋台型山車。その後、昭和9年に舞台と車台のバランスをよくするために改造。平成5年に、町内稲荷神社の主祭神である「宇迦之御魂命」の図柄を施したドン帳を新調している。

二丁目

砂川村(現立川市)五番組より大正9年に購入。明治4年の建造時は、屋根上の一本柱に人形を戴いた八王子型人形屋台だった模様。いたるところに江戸後藤派による精巧な彫刻が。また所沢、羽村、府中などで兄弟山車が活躍中。

三丁目

加藤清正の人形を乗せた八王子型人形屋台だったものを、大正御大典祭(大正4年)に現在の平屋台に改造(棟梁・清水佐吉)、幟の柱を材料にしたという。平成6年、舞台左右の柱を新調、補強している。

河原町

明治10年代、東京市浅草区茅町山車屋「浪花屋」(庄田七郎平衛)にて静岡浅間神社祭礼用に造られたもの。明治27年に当町が購入。三重高欄・欄間仕立の江戸型山車で、素戔鳴尊の人形。幕に、八岐大蛇退治説話の刺繍が映える。

宮本町

大正14年、岡野桂之助作の廻り舞台付き屋台型山車。 舞台正面柱の巻龍など、多くの彫刻が特徴で、その彫りは繊細、緻密、流麗である。彫匠、佐藤光重は八王子の山車彫刻にも名品を残す。また平成2年には後幕を新調。

原町

明治15年建造の四重高欄・欄間仕立ての江戸型山車を昭和55年に囃子台を入母屋造り屋根に改造。当初御幣を飾ったが、明治24年より神武天皇像を乗せている。作者の三代目・原舟月は幕末~明治期に活躍した江戸の人形師。

前田

川越市笠幡に旧家より彫刻を購入、これを主に昭和22年地元の棟梁が三重高欄・唐破風屋根付きの囃子台・廻り舞台で制作。入間市野田の山車の図面を参考にしたといわれ「屋台山車」と呼ぶ。人形はなく、諌皷鳥が飾られている。

柳原

昭和22年、当町の棟梁荒木文吉、島田仁三が建造した屋台型の山車。 平成2年に屋根を改修、ドン帳新調。5年には脇障子に龍、6年前柱に昇龍の彫刻を施す。昨年の天女に続き、本年懸魚に龍の彫刻を充填している。

中山

昭和52年地元の宮大工本橋初夫の設計をもとに、中山大工組合の手によって建造され翌年3月に完成。中山天満宮例大祭にてお披露目された。入間市野田の山車を参考にして造ったといわれる総欅造り廻り舞台付きの屋台型山車は、なめらかな曲線の唐破風屋根が特徴。

本郷

平成20年度より参加した、一番新しい山車です。山車の構造は欅造りで、間口2メートル、奥行3.4メートル。高さ4.5メートル。前柱には上り龍と下り龍、屋根の左右に唐獅子、前後には鬼板と懸魚などの彫刻が施されています。